「施肥なんて必要ないんだよ。僕らは自然から糖と水しかもらってない。何にも奪ってなんかいないんだ。」
ガイヤックの森で見つけた、新しい物語
ある日突然、1通のメールを受け取った。
「あなたに僕のワインを飲んでもらいたいんだけれど」
誰だろう?
差出人の名前を見ても、見覚えはなかった。フランスに住んでいるわけでもなく、知名度もない私にとっては珍しいメールだった。
短い文面の中のある一節が目に留まる。
「ワインを造る前は牛を飼ってました。」
ちょっと予想外で面白い展開だなと思った。
「牛飼いからワイン生産者か、どんな人なんだろう」
署名に記されていた名前は、ニコラ バスタン。
さらに Vigneron sauvage(ヴィニュロン ソヴァージュ)と記されていた。
直訳すると「野生のワイン生産者」、うん、なんだか友だちになれそうな予感がする。
偶然にも近々フランス出張の予定があったので、「ワインを飲むだけじゃなく、できれば会いに行きたい」と伝えた。
彼の拠点は「フランス南西部 ガイヤック」近くだという。
ガイヤック。その名前を聞いたとき、正直、特別なイメージがなかった。行ったこともないし、そこで造られるワインを最後にいつ飲んだかも定かではない。
漠然としたイメージでは、ガイヤックのワインは力強くて、最近の飲み手が求めるトレンドとは少し違うのかな?とよぎったり。
後に、ある自然派ワインのインポーターと話す機会があった。「ガイヤックは難しいわね。品種が野趣的だからかしら?」そんな彼女の言葉を聞いて、すでに答えを知ってしまっていた私は、思わず微笑んだ。
産地やトレンドなんてどうでもいい。
縁をもらえただけで幸運だからと、未知の土地に足を踏み入れることになった。そして、この旅が、新しい物語の始まりとなった。
はじめて訪れるワイン産地。南西地方と呼ばれるこの地域は、建物のスタイルも、土壌の色も、空の色さえも、どこか違うものに見えた。
美しい村々を通り過ぎた先の森に、目的地であるドメーヌ ラ トロンクがあった。
到着すると、ニコラが僕に尋ねた。 「試飲をするかい?畑に行く?」 「畑に行きたい!」 私は躊躇なく答えた。いつだって畑で造り手が語る言葉に一番関心があるから。
そうして向かった畑で目にしたものは、まさに「野生」そのものだった。刈られない下草、鳥が落とした種から育った野生の樹木。施肥も防除もしていないという。
「なんでこんな造り手とばっかり出会うんだ」 と心の中でつぶやきながら、私は抑えきれない笑みを浮かべていた。
メゾン リスナーのブリュノ シュルーゲルから学んだことを思い出す。彼の何時間も、何日にもわたる講義を通じて、このアプローチが決して奇抜なものではなく、深い洞察と真理への好奇心がもたらす王道だと理解していたからだ。
ニコラもまた、ブリュノと同じく、植物をよく観察し、自然の摂理を深く知ろうとしている。それは思いつきや精神論ではなく、自然との対話から生まれる摂理なのだ。
ブドウだけを見ていない
ニコラはとにかく植物を、生命を愛している。
ニコラの家の庭に案内されると、そこは果樹やブドウが森のように生い茂り、野菜やハーブ、花などありとあらゆる植物が広がる楽園のようだった。
この庭は、どの季節にも花と緑があふれている。それは、植物だけにとどまらず、小さな昆虫や他の生き物にとっても楽園であって、多様な生き物が生きるからこそ恵みをもたらしてくれる。
庭の脇に並べられたトレイには、ニコラが自ら種取りした植物の苗のポットが沢山並んでいる。ブドウの種さえも、芽吹いていたりして、そんなポットを宝物のように見せてくれる。
「ほらポットの中でもう色んな植物が芽を出してるだろ、ここですでに共生が始まってるんだ」
そんな話をしている時の彼の目は本当に輝いていた。ニコラにとって、植物たちは単なる作物ではなく、共に生きる仲間のようだった。
ニコラは、ボルドー液や硫黄などによる最低限の防除さえもやめたという。彼は今、ブドウの種(しゅ)としての抵抗力と回復力をどう最大限に引き出すかに注目している。この難しい課題を乗り越えるには、ブドウだけを見ていてもしょうがない。沢山の仲間が必要なんだと彼は考えている。
「どこを歩けばよいかわからないな」
彼に案内してもらう畑や庭、そして森では、油断すると足元で新しい命が芽吹いている。
この植物は、どう生きたいのだろう?
ちょっとでもワイン造りを知っている人であれば、「自然のまま、防除すらしない」と聞くと、ニコラは相当な変わり者なんだと思うだろうし、普通なら「狂気の沙汰」と言われそうなことだ。でも、彼にはちゃんとした理由がある。
彼と話していると、私たちが「常識」だと思いこんでいるものが、実はいかに狭い視野に基づいているかを思い知らされる。ニコラは、植物を徹底的に観察することによってその「常識」の殻を破り、植物の持つ驚くべき可能性を発見していく。
だから常に、ニコラの言葉は論理的でもある。
これは、植物のことを考えぬいた人だけが発する言葉であると思う。
ある時ふと気づいたのは、ニコラがやっていることは、一般的な意味での「農業」ではないということ。
普通、農業というのは人間のための行為だ。種を蒔き、作物を育て、収穫し、それを売って生計を立てる。つまり、自然を人間の都合に合わせて操作する営みだ。でも、ニコラの姿勢はまったく違う。
ニコラが実践しているのは、生命の神秘的な営みを見守り、育み、その豊かさを最大限に引き出す試みだ。この営みの中から、ほとんど魔法のように、ワインが生まれる。
それは、ニコラの意図した結果というよりは、むしろ自然からの贈り物のようなものだ。彼はその贈り物を、感謝の念を込めて受け取っているのだと思う。
ニコラのワインは確かに美味しい。
しかし、ニコラにとってそれは副次的なものにすぎないのだと思う。彼の本当の喜びは、この豊かな生態系を育み、その中で起こる無数の小さな奇跡を目撃することにあるのだと。
だからこそニコラは「何かをしよう」とは考えない。代わりに、彼はまず「受け入れる」ことから始める。雨が降ろうが、日照りが続こうが、病気が発生しようが、すべてを受け入れる。そして、その上で深く思考を巡らせる。
彼の問いかけはいつもシンプルだ。「この植物は、どう生きたいのだろう?」と
私たちは何も奪っていないのか?
「施肥なんて必要ないんだよ。僕らは自然から糖と水しかもらってない。何にも奪ってなんかいないんだ。」
この言葉を聞いた時は、まさに雷にうたれたような気持ちになった。感動というよりも畏怖に近い感覚。
普通、農家は「作物は土地から栄養を奪うから、肥料で補充しなきゃいけない」と考える。でも、ニコラはその常識に疑問を投げかけた。
ワインの主成分は水とアルコール。アルコールは糖から生まれ、糖は光合成によって作られる。光、水、二酸化炭素、これらはみな、自然界に豊富にある。
「絞った後の果皮や種を畑に戻せば、私たちは何も畑から持ち去っていないんだよ」
もちろん、ワインにはミネラルや微量栄養素も含まれている。でも、それらだって自然の循環の中で補充される。
この視点を持つには、どれだけの時間が必要だったのだろう。おそらく、長い年月をかけて植物や自然と向き合い、考え続けた結果なのだろうなと、キラキラした目で畑を見つめる彼の横顔をながめつつ想像した。
私たちは自然から奪わずに生きていけるだろうか?
ニコラのワインでグラスを傾けながら、答えの出ない長い夜を過ごすことになる。